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高松高等裁判所 昭和48年(ラ)32号 決定

抗告人 鈴木宏(仮名)

主文

本件を高知家庭裁判所に差戻す。

理由

一  本件抗告申立の趣旨とその理由は別紙記載のとおりである。

二  本件記録によると、抗告人は被相続人亡鈴木利助の長男であり、同人が昭和四七年一一月二四日死亡したのにともない、その相続人となつたものであるが、同人死亡の事実を間もなく知るにいたつたものの、死亡当時同人は生活扶助、医療扶助を受けており全く財産がなかつたので、抗告人自身のために相続の開始があつたものとは思わないでいたところ、昭和四八年四月六日にいたり被相続人の借金債務について支払命令と不動産仮差押命令が送達されたことにより、はじめて、自己のために相続の開始があつたことを知つた、として昭和四八年六月六日付書面により高知家庭裁判所に相続放棄の申述をしたこと、これに対し、原裁判所は、民法九一五条所定の「相続人が自己のために相続の開始があつたことを知つた時」に当るためには、相続人が相続財産の存否につき認識を有することは必要ではなく、被相続人に財産と目されるものが何一つなかつたとしても相続の開始があつたことを知らなかつたということはできないとし、本件においては抗告人が被相続人死亡の昭和四七年一一月二四日に同人の死亡の事実を知るとともに自己のために相続の開始があつたことを覚知したものと判断し、本件申述が法定の熟慮期間を経過した後の申述として同年六月一三日付をもつて、これを却下したことがそれぞれ認められる。

ところで、相続人が自己のために相続の開始があつたことを知つた、とされるためには単に相続開始の原因である被相続人の死亡の事実を知つたというだけでは足らず、さらに自己がその相続人となつたことをも認識することが必要であると解される。そして、被相続人の死亡の事実を知つた場合には特段の事情がない限り相続人は自己のために相続の開始があつたことを知つたものと推定して妨げないと思われるけれども、事実の誤認や法の不知など特段の事情があつて、そのために、自己のために相続の開始があつたことを知らないですごすということも絶無とは云い難いから、被相続人の死亡の事実を知つたことが当然に相続開始事実の覚知につながるわけのものとは思えない。

したがつて、相続開始後三か月の期間を経過したにかかわらず、相続の開始があつたことを知らずにいたために、なお法定の熟慮期間内であるとして、相続放棄の申述がなされ、その知らずにいたことの理由として、特段の事由が主張されたときは、家庭裁判所はその点の事実調査を遂げ、申述が法定期間内になされた適法なものか否かを審理し判断すべきものと思われる。

本件においては、前述のように、抗告人が自己のために相続の開始があつたことを知らずにいたために、相続開始後三か月を経過した後においてもなお法定の熟慮期間内であるとして相続放棄の申述をするとともに、その知らずにいたことの理由である特別の事由として、被相続人の死亡当時までの生活状態とか、抗告人が被相続人に全く財産がないと考えていたこと等の事情を主張しているのである。

そして、その主張のような事情があり、抗告人が被相続人の権利義務を承継したことの意識を全く欠いて、そのために、相続を承認するか放棄するかにつき、調査考慮をせずに放置することも諸般の事情に照してむりもないと解されるときは、いまだ、抗告人が自己のために相続の開始があつたことを知つたものとはいえないというべきである。

したがつて、原審においては、右の点の事実調査を遂げて、本件申述の適否を判定すべきであつたと思われるのであるが、本件記録に現われた限りではその調査を遂げた形跡を窺うことができない。結局、原審判は以上の点の調査を遂げることなく、抗告人が被相続人の死亡の事実を知つたことにより、自己のために相続の開始があつたことをもまた知るにいたつたものと即断し、抗告人の相続放棄の申述を不適法として却下したものと解さざるを得ない。

よつて、原審判には審理を尽さずして申述を却下した違法があり、その審理を尽させる必要があるから、家事審判規則一九条一項により、原審判を取消し、本件を原審の高知家庭裁判所に差戻すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 合田得太郎 裁判官 伊藤豊治 石田真)

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